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2008年9月9日 YOUテレビ・横浜ピアノ調律学院ロケ
横浜開港150周年を記念し、横浜とかかわりのある西川ピアノの創業者・西川寅吉の生い立ちを紹介する番組を制作するにあたって、YOUテレビより当学院に撮影協力依頼がありました。
写真は、若き日の西川寅吉がピアノを製作しているシーン(左)、山葉寅楠が調律をしているシーン(真中)です。
学院長の青木先生が山葉寅楠の役者さんに調律動作などの技術指導を担当しました。
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○ 西川寅吉について…
日本に初めてピアノがもたらされたのは、文政6(1823)年、ドイツのオランダ商館員、シーボルトが来日した時のこととされています。イギリスのロルフ社製のもので、何しろ音を奏でる大きな箱ですから、日本人は「西洋のお琴」という意味で「洋琴」と呼んでいました。それから32年後の慶応元年(明治維新の3年前)には、初めてのピアノ演奏会が横浜で開かれ、明治3年には、やはり横浜のゲーテ座というところに、イギリスのコラード・アンド・コラード社製のピアノが置かれたと言いますから、これがピアノ・ホールの始まりになるのでしょうか。
こうした流れを受けて、国産のものを作ろうという動きも生じましたが、その先駆である西川寅吉が試行錯誤の末、最初のピアノを製造したのは、明治も19年になってからでした。もっとも、最初の国産ピアノと言っても、木製の外郭を除けば、弦をはじめ、中の部品はすべて外国製ばかりですから、言ってみればパーツを組み立てるようなものです。
とはいえ、この西川楽器は、ピアノに先立ってオルガン(洋琴に対して、「風琴」と言いました)を製造販売し、その後、ヴァイオリンやアメリカ製の自動ピアノを販売するなど、我が国最初の楽器メーカーとしての足跡を大正末期まで残すことになります。
この間、別のところでも、やはり国産ピアノの製造をめぐって苦闘が展開されていました。山葉寅楠という医療器具、時計の職人で、和歌山藩士の三男として江戸で生まれた人物ですが、明治18年、西川寅吉に一年の遅れをとる形でオルガンの試作に成功した後、河合喜三郎という男と協力して、まずはオルガンの本格的な製造をめざしたというのです。
4年後の明治22年には山葉風琴製造所が設立され、やがてこれは日本楽器製造株式会社という名称に改められて、西川楽器に対抗し、ピアノ製造に乗り出します。ほどなく、彼は河合小市という男と手を携えてアップライト・ピアノを製造することになるのですが……面白いですね、ヤマハさんとカワイさんがいっしょにピアノを作ったなんて……。
(以上、エリック音楽教室様のホームページより許可をいただいて引用しています。)
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